その被害者は、79歳のおじいちゃんと、その娘さん。
娘さんは、話ができないほどの重度の障害者である。
通常、事故が起きてすぐに連絡をとり、今後の対応をしていくのだが、電話が使えないという。
というのも、料金を長期的に滞納しており、電話が止められている状況だ。
なので、自宅まで足を運ぶ意外、コンタクトのしようがない。
というわけで、毎週、ことあるごとに通っている。
訪問初日、事故当時の過失問題や、今後の対応は我々保険会社に一任するのでと、被害者でありながらも感情的にならず、むしろとても穏やかに接して頂き、好印象を持った。
しかし、先日、がらりと態度を変えられた。
「何か、子供が障害者である場合の補償はないのですか?」
そんなものは何もない。
しかし、僕にとって、その考え方はとても醜く、不快に感じた。
僕は生まれてこのかた、正直、お金に困った事はあまりない。
なので、経済的に苦しい状況に人間がどのように思うのか、考える事ができない。
むしろ、考えるべきではないのかもしれないが、仕事柄、相手の立場になって考える事が求められるため、僕はできる限り相手の気持ちを理解しようと努める。
ただ、今回ばかりは相手の気持ちがわからない。
言葉は悪いが、自分の子供を使って金銭を要求するなんて、悲しすぎる。
相手が父子家庭であるため、おじいちゃんを主婦とみなし、休業損害の説明をした。
とても気が乗らなかったが。
現代社会に潜む格差。
それに誘因されて沸き上がる心の格差。
非常に悲しい現実を目の当たりにし、土日の間、僕は少しばかり悲哀な心持ちになり、穏やかにはいられなかった。
いろいろな事を考えたが、行き着いた答えは、「与えられた状況を理解し、可能性を生み出す一歩を踏み出すこと」だった。
今、自分が何をしているのかを知らねば、他人との絡み方もうまく把握できない。
そこから、社会が生まれるのだから。
もし、そこに他人が介在されなかったのであれば、そこに活路は見えないだろう。
どんなに貧しかろうが、どんなにお金持ちになろうが、心の格差を広げてはならない。
自分の状況を把握する、動く。
僕は、「沈まぬ太陽」を読みながら、そう思うのである。
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経験しようとしたところで、またその状況をどう思うかは千差万別で。
昨日、私もそのことを考えつつ本を読んでいました。(気が合いますね。>Dくん調に言ってみる)
このおじいちゃんの本当の気持ちはわからないけど、お金がないがために生活に不安を感じる人生の方が多かった私が想像するに、
この方は不安になったのではないでしょうか。
取れるなら取るというよりは、
「どうにかならんもんでしょうか?」的なところは心理的に出てくるのではないかと思うのです。
娘さんをこれまで看られてきた中で「なんでこんなことが」と思うことも多いでしょうし、高齢になられて自分が死んでしまったらと娘を案じるとこれまた底知れぬ不安が出てくるのではないでしょうか。&事故にあって最初は受け止めていても、考えていくと「どうして自分たちばかりこんな目に」と怒りが出てくることもあると思うのです。。
以上は、「そういう場合もある」って「仮説」ですけれどね。
当たり屋なら別だけどね〜。
あなたのお仕事は、人間性が一番みえる場合に人と接するお仕事なのかもね。
いいにつけ悪いにつけ。
心を痛めることもあると思うけれど、
それは環境がなす場合ってのが多いと思うので、ある意味仕方ないと思わざるところもあるのでは。環境を打ち破れるのが個人レベルなのか、社会的に変わらないとだめなのか、、
そこを判断するのは難しい話かもしれませんが。
誰かと、この手の話がしたかったので、
つい長々と書いてしまいました。私も結論は出てません。。。。出るのかな、結論。
貴重なコメント、ありがとうございます。
>以上は、「そういう場合もある」って「仮説」ですけれどね。
そうなのです。
この「仮説」ということが、僕の仕事では非常に重要な部分なのかも知れません。
いやはや、気が合いますね(重ねてDくん調に言ってみる)。
しかしながら、仮説をたてて動くには、まだ知識や経験、そして最も不足している部分は、T教授やhyocoさんがブログでも仰っていた「人間理解」だと思う訳です。
そのツールとして、読書などが遠回りなようで、一つの近道なのかなと思っています。
仮説力
とでも名付けておきましょうか?w
個人的にはこの「仮説力」というのは侮れないとは思いますが。
また、「マザーハウス」のお話を伺ってからも、なんだかこのテーマに通ずるところがあるかなぁと。
今度、是非議論したいです。